文久3年(1863)、14代将軍徳川家茂が上洛し、孝明天皇に拝謁しました。これは建前上、朝廷と幕府が手をむすぶ「公武合体」政策の一環でした。しかし朝廷の本心は、幕府に対して攘夷実行の期日を迫ることにありました。
3月7日、家茂は、御所に参内し、孝明天皇に拝謁します。孝明天皇の妹宮・和宮が家茂に嫁いでいるので、家茂にとって孝明天皇は義兄に当たります。それにしても。京都における家茂の扱いは酷いものでした。230年前の家光上洛の時は、家光、関白、左大臣、右大臣という席次だったのが、今回は関白、左大臣、右大臣、家茂という席次でした。幕府は衰退している。主導権は朝廷にあるのだぞということを、朝廷は席次によっても示したのでした。孝明天皇から家茂にお言葉があります。「和宮は元気であろうか」 「元気であらせられます」 「攘夷については、力を尽くしてほしいぞ」 「それはもう…」拝謁は深夜に及び、孝明天皇より家茂に、勅書が下りました。「政治についてはこれまで通り委任する。ただし、ことがらによっては諸藩に直接指示することもあろう」「ことがらによっては」朝廷が、(幕府を通さずに)直接諸藩に指示を出すと。幕府がすっかり弱っているからこそ出せた、強気な言葉でした。そして朝廷が直接諸藩に指示を出す「ことがら」とはもちろん、攘夷のことです。大の外国嫌いである孝明天皇はどうしても攘夷をやりたいのです。将軍家茂を上洛させたのも、攘夷実行を確約させるためでした。